雑記の表紙はグリーン

ジャニオタ備忘録(語るタイプ)

自ら演じ、創り上げる『映画/舞台』。-『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』マサラスタイル上映

2023年8月。わたしに訪れたもっとも刺激的でキラめきに満ちた体験をここに記す。このことは、本業であるジャニオタ活動とはなんら関係がない。3年ぶりのくせになんだよと思われかねないがしかし、お暇であればぜひ……否、お暇でなくてもぜひ、話を聞いてほしいと思う自分がいる。

これは間違いなく、『現場』であり、『舞台』の話なのである。

 

『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』マサラスタイル上映

に、参加してきた。

通称『スタァライト』は、舞台女優を目指し演劇学校で日々励む『舞台少女』たちが、地下劇場で行われる謎の『オーディション』に参加し、『トップスタァ』となるべく、自らの持つ『キラめき』を歌って踊って奪い合うお話。あまりにざっくりな説明だがここで文章を連ねてもとんでも野暮で堅苦しくなってしまうので、ぜひ調べていただけるとありがたい。


www.youtube.com

アニメは2018年に放送、総集編の制作を経て、アニメの続編にあたる劇場版は2021年に公開された。今回観に行ったのはこの劇場版(通称『劇ス』)。無論、現在は2023年である。なんとこちら、公開から2年を過ぎた今でも、各地の劇場でのアンコールあるいは新規上映がかかり続けている、なんとも稀有な映画なのだ。そして今回は、『マサラ上映』という、通常の映画鑑賞とは異なるイベントスタイルの上映だった。

マサラ上映(マサラじょうえい)とは、日本の映画館でインド映画を上映する際に行われる応援(発声)上映の一種である。マサラシステム、マサラスタイル、ライブアクション上映とも呼ばれる。映画のジャンルであるマサラ映画とは異なる用語。

マサラ上映 - Wikipedia

(マサラ上映って、日本でも意外と長い歴史があったんだ……勉強になりました)

スタァライトしたい*1」。スタァライトに出会ってからの自分の、行動原理のひとつである。劇場版が公開されてからはそれが顕著となり(実際は公開初見~再燃に少々のラグがあるが、経緯は割愛する)、再上映がかかれば自分の行ける範囲で観劇を繰り返している。しかしながら、次の上映がマサラと聞いて少し躊躇った。インド映画まったく通ってないから上映スタイルがまず未知すぎるし、キャーキャーワーワーしてる現場苦手だし(ジャニオタにあるまじき態度)、知らんオタクの野次をわざわざ聞きに行くのもな……と消極的な偏見に満ちていた。結局、友人たちとの連番&何度も見ている映画への安心感から参戦を決めたのだが、ほんっっっっっっっっっとうに行ってよかっっっっっっっっったよマジで。

 

そうと決まれば、まず準備。

紙吹雪や応援グッズがあると超楽しいぜ!というのは知っていた&参加が決まってから調べた。声出しはともかく、そういった物理的(?)な賑やかしなら頑張れるぜ!ということで、持って行ったのはこんな感じ。

紙吹雪(赤*2/白*3/青*4/赤白橙MIX*5/カラフル*6/金銀*7/模様入り*8/花型*9

できれば既製品で~と思ったけど今回推奨サイズである4cm×4cm以上がなかなか売っておらず。手作業に勝るものなし。ただその作業をめちゃくちゃ舐めてて、カッター+定規でやってたらまぁ~~~~~~~時間かかる!!!!そして手が腕が痛い!!!!!!(ペットボトルも満足に開けられない畜生握力なもので……)翌日には裁断機を仕入れて、一緒に参加する妹と二人がかりで切り刻みまくった。

金銀、箔模様入りの紙は、今回のレギュレーションには紙質の指定はなかったのでセーフかな……と思いつつ、他劇場だと分別の関係で箔紙は使えない場合もあることを学んだ。*10

花型は100均に売ってるプッシュポップコンフェッティの中身。プッシュポップがあまりうまくいかなかったので、中身だけ持って行って手で撒いた。星型もたくさん買ったのだけど、推奨サイズよりあまりに小さく持参は断念……。

カスタネット

劇スの必需品!!!!!!!!!楽器屋で500円。

ファーファ―タンバリン

ワンピース歌舞伎を観劇したときに買ったものの、一度きりの出番以降使うことなく自室で眠っていたタンバリン。めちゃくちゃ役に立った……!小さくて持ち運びやすく、プラスチック製なので過度な音が出ないのも適している。マサラ上映のために生まれてきた……?

紙風船(トマト)

今回はクラッカー禁止だったので、代用として破裂音を出すのに役立った。思い切り叩かなくてもそれなりの音が出るし、意外と丈夫。

ペンライト(スティック型/SZ10th)

スティック型:毒毒モンスター初演のやつ(ごめん)モノ自体は市販品だしロゴ印字薄いのでけっこういろんな現場に携えている。色数も多くて*11*12九九組カラーもそろっているので便利。

SZ10th*13:ごめん(ごめん)他ジャンルだけど最後列やし許してくれや……の気持ちで持参。どうしてもあの金縁薔薇ケースを『魂のレヴュー』で灯したかったんや……それだけなんや……。

軍手・ゴミ袋

後片付けに役立つと聞いて。役立った。

 

当日、開演です。

もう~~~~~~~ねえ~~~~~~~~~、めっちゃくちゃ楽しかったんですよ~~~~~~~~~~~~~~~~。

まずはじめに、自分の先入観は消極的な偏見に過ぎなかったと心から。『野次』なんてほとんどなく、優しく面白く熱のこもった『声援』に他ならなかった。もちろんその中での好き好みは個人の感想としてなくはないし、客席との相性は一回一回の運でもあることはマサラ上映に限らず重々承知だけれど、少なくとも、初体験の自分にとってはこの上なく環境に恵まれたな……と感じた。一種のバトルものでありながら、他人を蹴落とすことでは決着しない、この映画の性質によるところも大きいのかもしれない。

個人的にエキサイティングだなと思った応援はこんなかんじ。

  • 泣いているキャラクターに「泣かないで!」「大丈夫だよ!」「そういうときもあるよね」などの励まし(やさしい)
  • 場外からカットインの声、またもったいぶった言い回しに対する「え?」「誰?」「どういうこと??」などの疑問符(会場のほとんどが展開を知っているはずなのに白々しくライブ感に没入するのがめちゃ楽しい)(キリン「共演者は、あとふたり」に対する「わたし……!?」などもよかった、そうかもしれない)
  • 返事(華恋「きみは、やさしいクマさんだね」観客「はい!」)
  • 演奏(大の大人が幼稚園児になりきって一斉に叩くカスタネット)(客席のどこかから聞こえてくる鍵盤ハーモニカによる劇伴)
  • 「私たちはもう、舞台の上」(声を揃えて言うのがほんとうにほんとうに気持ち良すぎた、私たちはもう舞台の上にいた)
  • もちろんレヴュー中の応援も大変楽しかった。後述。

上映会全体として、主催の心配りも大変居心地よく、ありがたいものだった。物語のキーアイテムである『ポジションゼロ』ことT字のセンターバミリを模した紙吹雪の無料配布、劇場版主題歌『私たちはもう 舞台の上』歌詞カードのこれまた無料配布。手厚い。(ちなみにこの主題歌、安易に合唱しましょうと言えるような難易度の曲じゃないんだけれど、それでもフルボルテージで大合唱をかます観客席は健気でいじらしく愛おしかった)この上映が成功したら、今後もマサラスタイルを都内で続けたい、と語ってくれた言葉の端々には熱意があって……ついていくぜ!クーベルチュール!!(花吹雪バサァ)

 

私たちは、舞台創造科――そしてもう、舞台の上!

マサラ上映は、めちゃくちゃ『舞台』だった。

紙吹雪、鳴り物、ペンライト等で場を盛り上げることを許されている上映。それらは、(主催によって多少の指南はあれど)誰の指示でもなく、観客自身が投げる・鳴らす・灯すタイミングを考えて行っている。多くの観客は上映作品をすでに複数回観ていて、たとえば「魂のレヴューのバラの花びらが舞うタイミングで赤い紙吹雪を投げたら一体感出るよな」「まひるが宣誓したら会場盛り上がってほしいしタンバリン鳴らすかな」などと考えて、事前にそれを仕込んでくる。これらは、紛れもない演出行為だ。観客は自ら小道具、音響、照明等の舞台スタッフに成り代わり、その日限りの『舞台』を創り上げるのだ。

スタァライト、とりわけスタァライト九九組*14のファンは、『舞台創造科』と呼ばれている。これは、劇中の聖翔音楽学園が俳優志望のクラス『俳優育成科』と裏方志望のクラス『舞台創造科』に分かれていることに由来する。彼女たちは前者に属しており、舞台下より観劇という行為のもと舞台を創り上げるピースとなる我々は後者、というわけだ。愛称と化す一方、劇中では主役の彼女たちだけでなく、『舞台創造科』の生徒たちも舞台を成功させようと奮闘する姿も描かれている。マサラ上映では、わたしたち観客も愛称に留まらず、名実ともに『舞台創造科』になれていたのではないだろうか。

そしてあの夜、わたしたちは『俳優育成科』にもなれたのだ。

「サァ、張った!」「ニャ~~~~~」などの歓声に加勢し、声を上げる。主題歌『私たちはもう 舞台の上』を高らかに歌う。幼稚園児になり切って、一緒にカスタネットを叩く。そういった行為はもはや、演技に他ならない。わたしたちにも台詞があって、出番があったのだ。わたしはとくに、「私たちはもう、舞台の上」と声をそろえるシーンで一緒に発声したのには、とてつもない高揚感を覚えた。ほんとうにそのとおりすぎて、震える。劇スには、

華恋「見られてる……誰かに」
ひかり「観客が望んでいるの。わたしたちの舞台を」
華恋「客席って、こんなに近かったっけ」

と言い合いながら彼女たちがカメラ目線で『こちら』を見つめ、第四の壁を意図的に越えてくるシーンがあるが、そこで観客が「見てるよー!」「華恋ちゃーん!」と声を出すことで、『観客』という台詞付きの役が生まれるのだ。それってもう、『私たちはもう、舞台の上』じゃん。舞台少女じゃん!?なんて、烏滸がましくも思ってしまった。

(『演じ切った舞台創造科』、なんというハイブリッド観客)(この記念撮影もマサラ上映の恒例だそうですね。知らなかったあ)

わたしたちは、舞台を創り上げ、演じ切った。となれば最後には『バラシ』が待っているもので……。この写真を撮ったあとはスーパー片付けタイム。散り積もった紙吹雪の山にちょっと引きつつ、これもすべてキラめきの欠片……と思うと愛おしさはマシマシになる。ほとんど全員が従順に参加し、30分もしないで終了した。

(もちろんこれは、マサラ上映だからこうなった、とそれだけで語れるものではない。大前提として、作品そのものが持つエネルギーの強さ、スクリーンに生きる舞台少女たちのまぶしさ、アニメは収録物であり作り物であるという概念すら超えてくる演出の妙と『舞台』への解像度、などがあってこそだ。なんて作品だ、大好きよ、スタァライトなんて……。)

 

『8/5(土)ソワレ公演』だから気づいた、新たな解釈。

ひとつ、作品に関する感想語りをさせてください(オタクの語り長いよって人は色付きの段は飛ばしてOKです)

香子が「しょーもな」と言い捨てて廊下を歩き、洗濯場に向かうシーン。今回の上映では、香子の足音に合わせておそらく(演奏している人は見えなかったもので)カスタネットが打ち鳴らされ、洗濯場にてクロディーヌと鉢合わせたタイミングで、おそらくヴィブラスラップが、カーン!と鳴った。(めちゃめちゃ盛り上がったよね、ありがとうございます)

この和風――歌舞伎的な演出は、香子が日本舞踊の家の出身であることから着想を得たのだろうと予想する。打楽器はさながらツケ(附け打ち)だ。そうなると、なんだか香子が歩く廊下が、舞台の花道に見えてくる。香子は捨て台詞でリビングを後にするから、本舞台から引っ込むべく歩いていて。そうなると洗濯場は鳥屋にあたるのかなあ――と考えて、わたしは、ひとつの解釈にたどり着く。

この構造、歌舞伎の『押戻』に重なって見えてくる。

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この場合、香子は『怨霊』だ。オーディションへの未練、双葉や周り、自身へのもどかしさを抱えながら、どろどろぐつぐつした感情を身に宿したまま、香子は花道を怒りで踏み鳴らし(歌舞伎的には『バタバタ』という擬音がつきますね)、共演者が集う舞台から引っ込むのだ。しかしそこに、クロディーヌが『荒事の主人公』のポジションがごとく立ちはだかり、そのまなざしに圧されて、香子は鳥屋に引っ込むことが叶わない。

劇ス(あるいは歌舞伎も)を知っている人からすれば、少々強引な当て込みであることは否めない。香子はツンケンしてるだけで悪者ではないし、クロディーヌは見つめるだけで香子を物理的に押して戻したりしないし、そんなに長い時間にらみ合ったりしないし。だがこの妄想とも言える解釈を得たことにより、「香子はここで引っ込めなかったから、もう一度舞台に上がることができたのではないか」と考えるようにもなった。ここで『怨霊』のまま泣き寝入りしていたら、仮病で校外実習を休んでいたら、電車に乗り合わせず、ワイルドスクリーンバロックに参加することもなかったかもしれない。ここで引っ込めなかったから、もう一度舞台に上がって双葉と対峙し、自身の『怨み』を昇華することができた、のかもしれない。

(数の問題ではないかもしれないけれど、)もう何度となく見ている作品である。だけど、上記の解釈に至ったのはこれがはじめてだった。あの上映に足を運び、居合わせた観客が楽器をこのように使わなければ、一生考えることもなかったかもしれない。それは、とても舞台的……というか『舞台』でしかない。『8/5ソワレ公演』である。「どうして何回も同じものを見に行くの?」多ステ派のオタクの多くはこんな質問を投げかけられたことがあるだろう。そして、「目の前で繰り広げられるライブに同じ公演などひとつもない」なんて返事をしたことがあるだろう(あるといいな)。一度きりの生きた舞台に、その日その瞬間しか味わえない感動を求め、ときに予測していなかった展開に出会い驚かされたい。わたしにとって今回のマサラ上映は、まさにそんな体験だった。

余談というか与太話ですが。スタァライトは劇中に激烈かっこいい口上が入るもので、その直後にキャラクターの名前を叫ぶのがめちゃくちゃ盛り上がるんだけど、それもとても歌舞伎的だよな……と思った次第。だいぶ間口の広い大向う。でもはるか昔の芝居小屋では本来の大向うもこんな感じで飛び交っていたのではないだろうか、とか、とくに根拠のない妄想で演劇の歴史の一端に思いを馳せた。

 

いや~~~~~~~~~~~~~ほんとうに楽しかった……。新しい発見もあった。いってよかった。おすすめするでもうまいこと布教するでもない記事をここまでお目通しいただき誠にありがとうございます。ちなみに、座っての鑑賞スタイルだったにも関わらず、なんかずっと汗だくだったし帰宅したころには野外フェス行った?てくらい体が疲れていた。水分塩分出し切って筋肉の緊張もマックスだったかもしれない。ビールうまい。アドレナリンをキラめきに変えて滾らせた2時間でした。また参加できるところで開催されるなら行きたいなあ。スーパーアグレッシブな『現場』の話でした。

 

ところで、『再演』します。

見直して今夜にはUPしようかな、と思ったそのとき、クーベルチュールから『再演』のお知らせが届いた。なんというベストタイミング。「お持ちなさい あなたの望んだその星を」――

前述のとおり、劇スは公開から今に至るまで上映が途切れない、稀有で、熱狂が集う映画。マサラ上映以外にも、ライブ音響上映やら、ライティング上映やら、すでに各地でいろいろなスタイルの上映が決まっている。もちろん通常スタイルの上映もアンコールがかかっているし、過去にはこの劇場版のみならず、総集編映画やテレビアニメの上映会もあったりして……きっとこの先も上映があることだろう(と、期待と熱望を込めて)。つまり、今からだって遅くないのである。分かるな!?分かります。

ところで、『配信』やってます。


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9/24(日)までとあと少しなんだけど、期間限定でアニメ全話がYouTubeにて無料配信されています(1週間やってたものなのでほんとうはもっとはやくこの記事を上げたかったが……遅筆で……)。時間が許す全人類見てくれ。なんなら舞台も配信してるから見てくれ。


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(常設無料1話)


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(常設ダイジェスト)(多少のオチバレはいいから手っ取り早く雰囲気を掴みたい方はこちら)

有料であれば各配信サイトで取り扱いがあるので、もしここまで読んでくださった未見の方がいればぜひ。

youtube.com

*1:劇中のセリフより。スタァライトは名詞であり、動詞なのだ

*2:トマト、血しぶき、薔薇

*3:真矢さま

*4:ひかりちゃんの宝石

*5:私たちは、燃えながらともに落ちていく炎

*6:主にED

*7:キラめいてるとき

*8:キラめいてるとき

*9:ふたかお

*10:終了後上映に関するツイート巡ってたら、近くに座ってたと思わしき方が紙吹雪を拾ったツイートしてくれてたのに遭遇して、それもうれしかった!!!かわいくて映画にもぴったりと思って選んだので!!!大量に投げ散らかしたのでご迷惑にならなかったかだけが心配……なんてことをネット上ですら声をかけられずただ顔色をくるくるするだけのオタクなのであった……。

*11:毒毒初演は2色しか使わなかったけどな!!!!!!!

*12:そんで再演はプレート型になったから使えなかったしな!!!!!(プレート型もちゃんと購入したよ)

*13:Sexy Zoneのコンサートグッズ

*14:主人公たちメインキャスト9人のこと

Beguiled Again - 『ロジャース/ハート』2018備忘録

もんのすごいお久しぶりなブログですが。

ふと下書きを開いてみたら、当時したためていた感想が眠っておりました。もうほとんど書けていたので(総括みたいな部分で止まってた)、なつかしさ&再演に向けた予習的な意味でUPします。

記憶もメモもだいぶどっか行ってしまったので、とくに推敲はしていないです。当時感じたものをそのままコピペしました。今年は配役もキャスト数も変わるし、それだけホンなども変わるのでしょうが、はてさてどうなるのでしょうね。楽しみです。

感想というよりただの解釈だしへたすりゃ怪文書ですが、どうぞ。

 

 

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『ロジャース/ハート』(以下R/Hと略します)も映画『ワーズ&ミュージック』(以下W&Mと略します)も似たような描き方をしていると思うのですが、仕事面=バディの友情だけフォーカスしても分かりにくいコンビの明暗を”恋愛”をキーに展開していくのが面白いなと感じました。実際のロレンツ・ハートは同性愛者でペギーは実在しない、という話もありますが、同じ条件で描くからこそ対比がより濃く出るのかな。*1もちろんR/Hの物語はそれだけじゃないのですが、”恋愛”を基点に比較してみると、短いストーリーをなかなか楽しく解釈することができました。しばらく述べます。といっても感想というよりはめちゃくちゃ妄想なので、思いっきり見た人向けです。お時間のあるときにお付き合いください。

以下。

 

ロジャースとドロシーの出逢い『The Girlfriend』

踊るドロシーを見てディック*2「あの子は?」ドロシーがはけたあとも行った先をぼーっと見つめるディック。〈キュートで スウィートで かわいい彼女 カンペキよ〉というようにとにかく彼女の可憐さを褒める歌。ディックはこのあとドロシーにメロメロ*3になるのでぴったりというか、全体的にハッピーで華やかな感じがディック×ドロシーっぽい。

 

ハートとペギーの出逢い『A Ship Without A Sail』

歌い出すペギーに彼女イイね!と嬉しそうなロジャース&ハート。ディックが先に去ったあとも少しとどまってペギーを見つめるラリー*4。ミュージカルのリハーサル、として歌われているけれど、その歌声にはどこか説得力があって、まるでペギーに重なるよう。〈ひとり 浜辺 側には誰もいない〉〈愛してくれない なぜ? 壊れそう My Heart〉〈だけど ひとり 漕ぎだすのよ 海へ〉その後の台詞にもあるとおり、ラリー×ペギーは愛することがテーマになっていく。

 

それが自覚を伴うかはさておき、ふたりそれぞれ女性を”見初める”きっかけの曲が、それぞれのその後の関係を示唆しているように受け取れる。

 

パーティーにて、ハートの告白

ダンスの輪の中からペギーを引っ張り出し、告白するラリー。「きみと付き合いたいんだ!どうかな?」自身の年齢や長身を謙遜し、わたしを面白がってるだけ、と優しく遠ざけようとするペギーにラリー「ほんとうにきみにしたんだ」ペギー「作詞家のあなたが選んだ言葉は、愛ではないのね」それまでと違う強い口調で言い放ったペギーに、ラリーは言葉を失ってしまう。

思うに、きっとラリーの想いは真摯だし、決して軽率ではないのだけれど、ペギーにとって”恋”は悲しきトラウマ、俗っぽく言うと地雷なんだろうなぁ。愛と恋の違いって何よ、って話ですが明確な答えはなくて、でもラリーは以降ペギーが放った「愛ではない」の意味をずっと追いかけていくことになる。この言葉がほんとうに重たくって、ラリーのペギーへの恋心だけでなく、作詞家としてのプライド、ラリーが人生を委ねる”言葉”というもの、それを選ぶセンス……いろんなものを一気にへし折ってくるもんだから、ラリーにも大きな衝撃を与えてしまったんじゃないだろうか……。

 

恋の気づき『This Can't Be Love』

対してディック×ドロシー、お互いに芽生えた感情を自覚するデュエットナンバー。〈そうだ恋をしたんだ〉〈すごい このときめきは 完璧に恋だ〉って、さっきラリーが否定された”恋”を、ディックは高らかに歌い喜びに打ち震える。ドロシーは〈いいえ恋なんかじゃない〉って冷静になろうとしてるけど〈だけど このときめきは もしかして恋を?〉と歌ってしまう時点でまぎれもなく恋なので、お互いが同じ気持ちで惹かれ合ってる様がなんとも微笑ましい。しかし男ばっかり浮かれててかわいいし、女性は踏みとどまろうとするけれど”ときめき”には逆らえない……!っていじらしさがある。かわいい。(結局)

 

想ったのなら即行動!積極的なラリーと、自覚はすれど想いは言えない臆病なディック。キャラクターの対比もさることながら、一方が振られてすぐにもう一方の浮かれ模様を描く演出がまぁエグイ。

余談だけど、『You Mustn't Kick It Around』の両ソロパート、ラリー〈愛を感じない 不安だけれども 想いは変えられない〉ディック〈嘘の優しさは いらないけれども 捨てられたくはない〉それぞれの性格というか恋愛の性質に合ってて、ナイス采配だなと。

 

手を取って『Thou Swell』

数年ぶりに再会したディックとドロシーがめでたく結ばれるナンバー。ほぼ歌詞のとおりで幸せそうなので特に言うことないけどw(おい)(後述のナンバーと並べたいので項目化しました)〈2Rooms and Kitchen 十分〉ってめちゃくちゃ気が早い上に〈どんな家なの?〉〈ん~それは 内緒!〉っておのろけ全開なので、ほんと末永く幸せにな……!ディックもドロシーも笑顔が晴れ晴れとしていてこちらも幸せな気分になれるし、ウェイターの乱入も一瞬で追い出されてしまうほど、とにかくふたりの世界が出来上がっている。

 

遠く離れて『Falling In Love With Love』

ラリー×ペギーのデュエットナンバー……ではあるんだけど、月明りの中で背を向けて歌うペギー、ペギーを待ち続けてひとりのレストランでぽつぽつ零すように歌うラリー、というように、ふたりが顔を見合わせているわけではない。『Thou Swell』が掛け合いで会話して手を触れてペアダンスして……ってどこまでも”ふたり”で成立するのに対して、この曲はひとりとひとりが遠く離れたところで歌っている。唯一のデュエットナンバーがこれって……!

歌詞はラリーよりもペギーの内心に近いのかな、というか、またひとつペギーという人間を考える材料になるかなと。わたしの思うペギーは「詳しくは分からないけれど訳アリの臆病な女性」。過去に恋愛でひどく傷ついてトラウマをつくってしまい、ほんとうの愛を求めているけれど一歩踏み出せないがためにつかめない。自分自身はコンプレックスだらけ、だけどそれを隠して明るく振る舞えるし、歌の才能があってステージで輝ける。……とくに後半は、ラリーにも重なる部分があるんじゃないかな。天才的な作詞センスを持っていて自由奔放、けどその奥にはコンプレックスや寂しさをぬぐえないまま抱え続けている。きっとふたりは似た者同士で、だからこそ惹かれて、だからこそ寄り添えない。

ペギーはなぜラリーの想いに応えないのか、はっきりした理由は最後まで明かされないままだけれど、〈恋に恋した 満月の夜 なんにも見えなくなった〉と歌うペギーの姿にその答えがあるような気がした。

 

『My Romance』と『Why Can't I?』

パーティーのあと、ドロシーを送り届け、想いを告げられないまま別れの挨拶を交わしたディックが歌う『My Romance』。

来ることのないペギーを待ち疲れ、ひとりぼっちのレストランでラリーが歌う『Why Can't I?』。

ディックは立ちつくしふと夜空を見上げて、ラリーは椅子に座りため息とともにうなだれて、それぞれに歌い出す。広い”外”と閉じた”内”の空間、モーションまで対照的。『My Romance』の〈醒めても 素敵な夢見てるよう〉に対して、『Why Can't I?』の〈なぜぼくに見れない夢〉、同じ”夢”というフレーズを用いながらもその心情は真逆。どちらも愛しい人を求める歌、なんだけど、一方は希望満ちてもう一方は孤独に咽ぶ。これが同じ夢を目指したコンビのソロ曲というのだから、苦しいやら切ないやらで、でもどっちの方がいいとかはなくて。それぞれの恋が輝いていて、ディックは優しくて美しいし、ラリーは悲しくて美しい。

余談だけど。『Falling~』『Why~』のシチュエーション、ラリーがペギーに歌わせた『Second Blue Moon - The Bad In Every Man』の〈小さな食堂ひとり 長い夜は続く〉と重なりますよね。レストランがどの程度の規模かはセットからだけでは察しきれないけれど、小さいってことにしたい(こじつけ)

 

誰に宛てた『My Funny Valentine』?

すっかり身持ちを崩してしまったラリーが納期を破りながらも歌詞を書き上げ、ペギーに歌わせたナンバー。〈あなたの姿素敵じゃないけど わたしには愛しい〉〈でも 変わらないで そのままでいて わたしのために〉ペギーは歌いながら涙し、最後は微笑んで歌詞の書かれた紙を抱きしめた。ラリーはうつむいたままその表情を覗かせず。ディックははじめこそ作品のことを考えながら仕事として聞いていたようだけれど、途中でハッとした顔でラリーを見る。そこにいる全員が気づくのだった。ラリー最大の”公私混同”に―― ……さて、ラリーはこの言葉たちを、一体誰に向けて書いたのだろう?

わたしは最初、ラリーがペギーに贈ってもらいたい言葉、なのかと思って聞いていて。たくましくない、スマートじゃない、弱い表情……って蔑む言葉の連続は自虐で、きっとペギーは理解してそんなことしかできない自分を憐れんでくれるだろうから……。『Why~』『Blue Moon』でラリーが歌う、愛される”夢”、それを見たかったんじゃないかな、と。

でも何回か聞いて、そのたびペギーの歌う姿を見ていくうちに、この言葉たちはラリーによるペギーへの愛なのか、とも思えるようになった。ひどい女(再会も避けるほど応える気がないくせに、はっきりと拒絶もしてくれないし)で臆病でコンプレックスに塗れた人、だけどそんなあなただから好きになった、ぼくの恋に応えなくてもどうか愛するペギーのままでいて……そんな想いをこめたのではないだろうか。だからペギーはあの言葉たちをぎゅっと抱きしめて泣いたんじゃないかなぁ。

ところでディックもめっちゃハッ!としてラリーの思惑に気づいた感じを見せるのですけど、どこまで分かっていたんだろうか……というのは一生のw疑問である。分からなくてもいいのかなぁとか。きちんと想いを結ぶディックにラリーの想いのすべては分からなくていい。でも、ラリーがどんなに恋に焦がれたか、そばで見守ってきたのもまたディックだろうから。さぁどれくらいだろうなぁ。

 

孤独にさよなら『Blue Moon』

如何せん芝居パートが少ないのでラリーが寂しさを感じてる分かりやすい描写も少ないんだけどwペギーとの恋愛以外で挙げるとしたらディックとの対比、もひとつなのかな。ディックとドロシーがうまくいくこと自体はもとより、舞台上の演出も、ディックがうまくいってるときにラリーが苦しい表情を見せるよう配置されてる。『This~』でディックが浮かれながら歌ってる後ろでラリーが一人酒を煽ってるし、ディックとドロシーが仲睦まじく話し込む奥ではラリーが帽子を目深に被る。それは、ディックに嫉妬するとか遠くに行かないでとかいう感情ではない、と思うけど(お互いの気持ちにはきちんと寄り添えるし、そういうことで嫉妬し合うバディではないなと)相棒のディックとも隔離してラリーを独りの世界に落とし込むのが、まぁ残酷だな……と。あと分かりやすかったのがパーティーで5人が輪になって踊っているのにラリーだけがソファにいる構図。意図的にはぶってるんじゃなくて、ラリー自身がふと独りの世界に入っていってしまうんだよね。……というのが『Blue Moon』の話をする上での前提だなと思ったので書いておきます。

〈現れた突然目の前に ずっとそばにいたい人〉って歌われると『A Ship~』で振り向いた瞬間のペギーが浮かぶ。〈輝く月夜の中で 聞こえた「愛してほしい」〉は『Falling in~』。ペギーとラリーが別々の場所にいながらデュエットしてるような不思議な空間は、ラリーが悲しみと孤独の中でペギーの声を聞いたような――ペギーの言った「愛ではないのね」の意味が分かったような――そんな悟りのシーンだったんじゃないかなぁ。〈分かっていたんだ 愛したい人を 想うだけでいい〉〈愛する人が 心にいるよ〉って、愛されることを夢に見るほどなのに最後までラリーを満たすのはそれではなく、自分の中だけで想う、そのことで孤独の寂しさから解き放たれるなんて切ない。ラリーは”愛”というものにとても不器用だった、それでも〈それだけでいい〉って、きっとひとつの答えを見つけて、幸せに触れたんだろうなぁ……。

〈もう独りじゃない〉と高らかに歌い放つラスト。W&Mでディックが亡くなったラリーのことを「ひとりぼっちだと思い込んでいた男」と称していて、追悼コンサートにもこんなにたくさんの人が集まるほどなのに……と悲しくなったりしたので、R/Hのラリーが「独りじゃない」と言ってくれるのが嬉しい。結局それは、自分が愛することであり愛されることにシフトしなかったのはラリーの切ない性だけど、愛を抱くに至ったのは、周りのラリーを想う気持ちを、すべてではないにせよ彼も受け止めることができたからこそ、だったのではないかと考える。

ところで今まで、ペギーへの想いを中心に解釈してきたけれど、この『Blue Moon』、相棒ディックへの想いも含めて受け取れるなぁとも思う。順風満帆なディックに対して嫉妬や羨望ほどの燃え滾るものはなくとも、その光景がラリーのコンプレックスを刺激したり、相棒が自分の踏み込めない世界に目の前でトリップしていくことへの疎外感みたいなものって、寂しさとして抱くのはとても自然だなと思っていて。加えて、このナンバーってラリーの孤独の昇華だけでなく、(この舞台中で)彼が天命を全うする*5にあたる辞世の句、みたいな意味合いもあるように受け取ったので(曲中にディックの台詞が入るしね)ドロシーと育む愛も、この先の成功も、先に旅立つラリーがディックを想っての〈愛したい人を 想うだけでいい〉なのだとしたら、あまりに切なくてあまりに愛おしい。〈現れた突然目の前に ずっとそばにいたい人〉って相棒に捧げる言葉としてもとってもドラマチックでエモい。初めて会ってその場で聞いた曲が自分のインスピレーションを沸き立たせて、彼のメロディと自分の言葉がベストマッチだったんだから、これがロジャース&ハートの運命に他ならない。

愛する人が 心にいるよ〉の言葉には、ペギーやディック以外にも、数々の場面で仕事を共にした人々の顔が浮かぶ。それほどにラリー、もとい矢田さんが、雄大に、すべての愛を抱くが如くに響かせてくれた。

(だんだんと主題がグラデーションしていることが透けて見える文章ですがw、対比の話はここまでで、下はただロジャース&ハートのはなしです。)

 

「Beguiled Again.」

「ラリー、ぼくはきみにさよならは言わないよ。だってぼくたちがつくった数々の楽曲は、永遠に語り継がれるんだから。……それじゃあ、また会おう。Beguiled Again.

亡くなったラリーにディックが贈った言葉。Beguiled Againはフィナーレ曲『Bewitched』にあるフレーズであり、原作となったアメリカ舞台版のタイトル。演出の玉野氏は「魅せられて、また騙されて」と訳したそうだけど、なぜディックは最後にラリーへ贈る言葉にこれを選んだのだろう。

ディックは、ラリーに魅せられたのだと思う。あの日のラリー邸、出逢いの場で、自分の曲に詞をつけてもらったときに。ディックは一見ぞんざいな態度のラリーに少しの苛立ちは見せたものの、近づいてきたラリーに背筋を正したり、名前を憶えてもらえないほどテキトーなのだから怒ってもおかしくないくらいなのに、曲を褒められたことに素直に喜ぶほど、真摯にピアノを弾いていた。このときディック16歳、ラリー23歳。16歳から見る23歳は、少し大げさに大人に見えたのではないだろうか。そんな存在によってもたらされた言葉で、自分の曲が彩られ、たったひとつの歌になった。まだ若く小さなディックの世界はふくらみ、色づいて、色をつけてくれたのは紛れもなくラリーで、それはきっと格別な高揚感。『Blue Moon』の〈現れた突然目の前に ずっとそばにいたい人〉は、ラリーだけでなく、同時にディックにとってもそうだったはず。それからふたりはお互い才能と自分たちコンビの可能性を信じて、ふたりで世界を魅了して、ふたりの世界を魅了し続けた*6

だから、Beguiled Again。ディックは再びラリーに出逢うとき(それは概念的なものになってしまうだろうけど……)過ぎし日のように「また魅了して」ほしい、これからもふたりで世界を「魅了して」いこう、そう願っているんじゃないかなぁ。ふたりの出逢い、夢を形にしたブロードウェイ、ハプニングだらけのラジオ収録、踊り明かしたパーティー、ドタバタのハリウッド。得たもの、消費されたもの。どのシーンにもふたりの青春を感じる。「Beguiled Again.」その言葉を聞くと、それらのシーンが走馬灯のように駆けていき、せつなくもあたたかな気持ちになれる。

「それじゃあ、また会おう」死がふたりを別ったあとの世界で、それが叶っているのがまさに現在。100年の時を越えて、リチャード・ロジャーズは林翔太、ロレンツ・ハートは矢田悠祐、それぞれの役者の体でまた廻り合って、当時の音楽を知らない人も多くいる客席に数々の楽曲が届いて、心をときめかせる。

Beguiled Again、ずっと輝き続ける、ふたりの物語。

 

 

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うぃ~~。

Beguiled AgainにAgainできる2023年、めっちゃうれしいですね。読んでたら初演キャストが恋しくもなりますが、再演キャストにもとても期待しています。やしにし――はやてらちゃん、シーエイティーの名コンビ(俺たちはチーム!!!!!!!名コンビだ!!!!!!!!!!!!!!)になれ……。

*1:というより、単純に描きにくい理由もあったのかなとも想像できますが、その辺は(時代背景とか)詳しくないので想像するにとどめ置く

*2:文中ではニックネームを用いることにします

*3:死語ですか

*4:文中ではニックネームを用いることにします

*5:ジャニ育ちだもんでラリーが舞台中央の台に登るのはもう絶対そうだと"""わかって"""しまう

*6:宮崎さんがパンフレットで、ロジャース&ハートの音楽について「売れようという思いや、仕事としてやっている感覚がまったくなく、つくる喜びに満ちている」と仰っているのが好きです

with your smile, with our smile.〈はやしくんのはなし〉

2020年6月20日
林翔太さん、Jr.ご卒業・ならびにご結婚、おめでとうございます。

何かあるたびにお気持ち表明文をブログに残しているわたしなので、今回も例にもれずそうしていこうと思うのですが、いつにもまして思考がまとまっていなくてですね。取り留めない感じになってしまったらすみません。(いつもか……。)


率直にうれしかった。第一報が飛び込んできたとき、間違いなくわたしのすべては『うれしい』で満たされた。座っている電車の椅子がふわっふわしている感じがして、気がついたときには改札を抜けていた。うれしい。うれしい。めちゃくちゃにうれしい。ほんとうにおめでとうってそればっかり。完璧なハイだった。どんなアルコールより効いた。サイコー!って気持ちのまま元から約束していた友人たちと深夜まで飲みまくって、お高いアルコールも開けて最高の一日だった。……まずいこのままだとただの日記だ!笑 いろいろ考えるのはその後から今日までの話なんだけど、とにかく最初に思った、それしか思えなかった『うれしい』が、わたしの一番つよい気持ちだったのだと今でも思う。うれしいな。何度でも言おう。うれしいよ。


まず、Jr.卒業というステップアップと、結婚というジャニーズのタレントとしての高いハードル、どちらもクリアできるということに、彼が自分のいたい場所からちゃんと認められ評価されているんだということが分かってうれしかった。CDデビューではない道での前進は目に見える『Jr.としてのゴール』がないからこそ、ご自身の口から卒業の旨が聞けたのはありがたく、喜びもひとしおだ。先輩たちのエピソードを聞くに、Jr.として押していくことに限界を感じた事務所側からの提案*1だったりするそうだけど、はやしくんに関してもその方向性は大きいのだろうなと思う。お芝居やミュージカルに出演して、評判が評判を呼んで、次の仕事がどんどんつながって、オフシーズンがほとんどなくて……そんな状況を作り出し、しっかりと成果を上げたはやしくんはほんとうにすごい。Jr.だろうがそうでなかろうが彼は自分の場所でしっかりと頑張れるのだろうけれど、晴れてJr.を卒業したそのステップが、さらなるモチベーションの高まりにつながればいいと切に願っている。


そして結婚である。感情の整理の大部分は、もちろんここに費やした。先述したとおり、ほんとうにうれしくっておめでたくってうれしくって。でもそれだけじゃない気持ちも当然のように存在している。

先に気持ちよくないかもしれない話をしておけば、どこまでも濁りない心ではいられない、ということだろうか。あのときこのとき……そうか…………(ゲンドウポーズ)となることもある。「完璧に隠し通した」と評価するツイートを見るたび「いや完璧にってこともなかったぜ?」と言いたくなってしまう浅ましさを恥じる。事実として知らしめられたとき、彼がずっと誰かのものだったんだ・誰かのものになってしまったんだって、自分がそれまである種のヴァージニティーを自担に抱いていたことを認めざるを得ず落胆した。嫌すぎる。勝手に幸せになっていく彼に対する小さな嫉妬心かもしれない。リア恋的な思考は彼には持ち合わせていないはずだったんだけど、不思議だ、恋じゃないのにどこかで失恋したような、感傷的な気分が心の端っこでじくじくとしている。

マイナスなことはこのあたりにしておいて。

発表するのにすごく勇気がいただろうなぁとしみじみ考える。公表すればどうしても詮索されてしまうし、メディアや情報通を装った人物にあることないこと書かれてしまう可能性もある。お相手の方がはやしくんと同じく表に立つことを生業としている方ならまだしも、一般の方だ。愛する人をそんな目に遭わせなきゃならなくなるかもしれないと考えると、とても怖い。それでも覚悟を持って、事後報告とせず「誰よりもファンの皆様にお伝えしたく」とわたしたちのことまで考えて発表に踏み切って、お相手の方もリスクを飲んで後押ししてくれたんだろうなと思うと、すごい。(だからといってメディアが変な記事書いたりオタクがあれこれ詮索していいってことには絶対にならない。)今は、そしてこれからも、少しでも穏やかに生活を過ごせていますように。

はやしくんのご報告の中には「今がタイミングとして相応しいかどうか迷いました」とあって、そこにはコロナ禍なご時世のことも含まれているのだろうけれど、わたしはこんな時だからこそ、そばにいるたいせつな人をたいせつにして、人生と向き合って、愛を誓いあえることは、とても素晴らしいことだと感じている。普段は舞台とお稽古の連続でとっても忙しい彼だけれど、残念ながらお仕事がなくなってしまった今だからこそ、結婚に際してのやるべきことにしっかり手をつけられていたらいいなと思う。いやコロナ禍じゃない日常でだってやることはしっかりやる人だとは思うけど……。

NNNドキュメントのときに語っていた言葉を思い出しては、この決断の先でも仕事に邁進する姿でもって我々の笑顔を増やしていけると思えたんだろうな、てことにうれしくなる。それに、『ファンの笑顔をたいせつにする』そのために彼の愛する人の笑顔を奪うことがなくてよかったし、そのために彼が愛する人の手を離すことにならなくてほんとうによかったと、心の底から安堵している。わたしはずっと、はやしくんにしあわせでいてほしいのだ。ずっとずっとしあわせに笑っていてほしい。自分がしあわせであるために、彼に悲しい選択をしてほしくないし、彼がたいせつにしている人や物を傷つけたり、捨てさせたくはない。それがどんなにエゴであり、裏側まで見えない自分には気づけもしないことであろうとも、だ。そんなわたしにとって、はやしくんの結婚のご報告は、彼がたいせつなものをたいせつにして生きていけている証明でもあるように感じていて。だからだろう。ほんとうに心から、喜びに満ち溢れているのは。

あのときも……(略)なんて思うけれど、思ったからといって、これまでに受け取ったしあわせやよろこび、ときめきは、一切色褪せることはないのだった。ずっとずっと変わらない、真剣に歌い踊る姿に抱いた愛情は、なにもかも嘘じゃない。だから彼が連載に記した「これまでも今までと変わらず「林翔太」は「林翔太」」の言葉にも、素直にうなずける。わたしがステージに見るはやしくんはずっと誠実だ。密やかな逃げや隠れはあったかもしれないけれど、それでもできる限り誠実で、誠実に生きて、仕事して、愛して、たくさんの人を笑顔にしたいはやしくんは、謙虚に貪欲に前進している。その姿がこんなにも愛おしくて、今も昔もこれからも、こんなにも愛させてくれてありがとうと伝えたい。


……てゆか、こんな大事なライフイベントまで祝わせてくれる自担、すごくない……?「いまわたし、(一方的な自己満だけど)自担の結婚祝いの文章書いてるのか……」と思うとまたあの発表直後のハイが襲ってきそうな気がする。こんな機会一度しかないはずだし、ちょっくらEtarnalコピペ改変でもするか……などふざけようとしたけれど、いざ当事者(?)ともなると、あの文章馬鹿にできないな……ってなってる。私達は翔太のミュージカル=魂を支えるから。(いやお相手の方も支えてるって!)あといつか翔太のDNAとは混ざりませんけど。そうなんだけど、ファンとしてお仕事面を応援していくのは当然として、手が届きようもないプライベートの部分ではちゃんと寄り添ってくれる人がいるんだなぁと思うとほっこりもしてくる。そんなのオタクが言うまでもないがしっかり手を携えて生きていってほしいなぁ。

ものすごく個人的なことだけど、わたしには今のところ、結婚願望がない。他人と生活を共にすることを億劫に感じるし、他人の人生を背負う覚悟もない。配偶者でも自分の子どもでも、それを考えただけで恐ろしいと思ってしまう。だからこそ、結婚を選択できるすべての人を尊敬している。(そうと言って、もちろんひとりで生きていく選択肢も尊重されるべきだと思っている。)ただでさえ自担を尊敬しているというのに、ここにきてさらに尊敬してしまった。はやしくんもお相手の方もすごい。まぶしい。

ジャニーズwebの連載でページを割いてはやしくんをお祝いしてくれる仲間がいるのも、なんだか自分のことのようにうれしいなぁ。オフレコでやっていればいいのであって必ずしも公のブログで書く必要はないと思っているんだけど(だからどんなに近い人でも書いてないから祝っていないと捉えるのは絶対に違うし)、『アイドル(同じジャニーズのタレント)の結婚』というまだまだセンシティブな話題に対して、同業のアイドルが慶祝を示してくれることはほんとうにありがたいなぁと。大事にしたいよね。寺西くんの「単純ではないことは僕でも分かりますが、それでもとってもおめでたい」という言葉が深く胸に残る。お祝いの電話をしたらすごく喜んでいたことまで教えてくれる龍太くんありがとう。「男のケジメってやつか」とか言っちゃうお節介兄さんこと北山くんはどこまでも北山くんらしい。通常の日記も展開しながらしっかりお祝いしてくれる辰巳くんはいつまでもはやしくんのお兄ちゃん。「もうなんか表現できないぐらい嬉しいです」と花火まで打ち上げてくれる髙木くん。薮くんがハッシュタグで添えてたMr.childrenの『Simple』、いい歌すぎるのでここに引用させてください。*2SNSでお祝いしてくれる共演者さんや関係者さんたちの言葉も全部うれしいなぁ。はやしくんが愛されてるんだって思うと何もかもうれしい。

10年先も20年先も 君と生きれたらいいな
悲しみを連れ 遠回りもしたんだけど
探してたものは こんなシンプルなものだったんだ


……さ!そろそろやめとこ!笑 とにかくとにかくうれしいんです。ちょっぴりせつなくて、でもとってもしあわせで。センチメンタルな気分になって、ふと自分の担降りブログを読み返したんですが、「はやしくんがしあわせそうに笑うところをこれからもっと見ていきたい、もっともっとしあわせに笑っていてほしい、そのためにはやしくんを応援していきたい」と書いていて。今になってもわたしははやし担を続けているし、彼の笑顔を見ているし。彼がしあわせになるための決断をするとき、自分と自分を応援してくれる人たちとの関係ならそれができるって思ってくれたんなら、ほんの少しでも、それに貢献できるファンでいられているのでしょうか。だったらいいなぁ。ずっとずっとできる限りこれからも。


たいせつな人にたいせつな人がいるということ、たいせつにしたい場所があるということ。たいせつな人が愛されているということ。その愛に生きると決断できたということ。すべてがほんとうにうれしいです。

改めて、ご卒業おめでとうございます。そして、ご結婚おめでとうございます。

「愛してるよ、とっても!」

 

*1:風間俊介くんの仕事量やその情報掲載に支障が出た話だったり、ふぉ~ゆ~がネタにしている「Jr.と言うには年齢が上がりすぎてる」話だったり

*2:同じ記事の中でエビキスの話もしてるんだけど、どちらに当てはめても、良い……ってなれる元エビキスのオタクだよ