雑記の表紙はグリーン

ジャニオタ備忘録(語るタイプ)

そうじゃない

じたんに対して知っていること、っていうのが先日Twitterで話題になっていたような気がするんだけど、そのTLでは名前と顔くらいって言っていた気がするんだけど、多分わたしもそうなんだけど、そうじゃないって言いたくなった。きっとこの「そうじゃない」をいくつ思い浮かべようが十中八九で勘違いだ。アイドルとは出来すぎた偶像である。わかっている。でも言いたくなってしまう。

「そうじゃない」

 

だってわたしは彼のダンスを見ているし、歌を聞いているんだもの。そこには嘘がないんだもの。その日のやる気ゲージなんて数値化して見えたりなんかしないし、技術的なことが見定められるほど精通しているわけではないけど、いつわりでつくりかためられたものなんてない。ステージに立つ彼は真摯で真剣だ。最初っからできたひとじゃなかったかもしれないしたくさん心境の変化があったって当たり前だし、彼が入所したところから見ているわけでもないけれど、真剣じゃなかったらあんなに美しくは舞えない。あんなに上手に歌えない。あんなに魅力的には映らない。真剣な想い、くらい、知っていたっていいじゃないか。現実として受け取ったっていいじゃないか。アイドルは偶像かもしれないけれど、彼という人間が必死でステージに生きていることは何にもいつわられないリアルなんだから。そんなリアルな人間がアイドルにしがみついて華々しく踊っているところが好きなんだから。クリエで読んでくれた手紙を、しゃべるのへたくそだけど一生懸命選んでいる言葉を、信じないなんて、知らないなんて言いたくない。間違いかもしれないなんて可能性をあの姿に微塵でも持つのは失礼なように感じてしまう。確かなものが名前と顔しかなかったとしても、それ以外のすべては確かじゃなくったって、わたしが見たものは「知らない」なんて線引きをできるものじゃない。

 

所詮は他人だ。理解するなんて到底無理な話なのだ。理想に陶酔しているに過ぎないのだ。いつかはふっと風に揺らめいて消えてしまう小さな火なのかもしれない。でもそれは今を生きるわたしにたしかな温かさをくれる。その感触は死ぬまで残るのだ。知らないなんて言えない。間違いだなんて思わない。わたしが知っていることなんて彼という人間のほんのひとかけらであり、あとはステージという魔法が描き出した偶像に恋をしているだけだ。だとしても、「知っていること」はカタチと数字だけ、なんて味気ないことは言いたくない。「そうじゃない」。知ってるよ、きみのこと。きょうもわたしはじたんが好きだ。

 

そんな風に思ってしまう自分は、愚かで夢見がちなんだろうか。